矢野アカデミー

カナダで出会った「新渡戸稲造」

エッセイ 2


☆ カナダで出会った「新渡戸稲造」
    ≪その知られざる魅力

  A    生い立ち

新渡戸稲造が生まれたのは今から155年前の1862年です。
1853年にペリーの黒船が来航し、尊王攘夷そして討幕の嵐が吹き
荒れていた、まさに江戸幕末激動の真っただ中でした。
南部藩(現在の岩手県盛岡市)の武士の3男、8人兄弟の末っ子です。
当時父親は藩の江戸守居役として、江戸におり、外国の珍しい品物、
例えばオルゴールなどを土産として、ときどき実家に届けていたようです。
稲造はそんな外国の珍しい物を見ながら育ったので、普通の子供よりは
外国にあこがれや親しみを感じていたのでは、と想像できます。

少年時代はかなり腕白だったようですが、稲造が5歳のとき1867年に
父親が世を去ります。この年は大政奉還、坂本龍馬暗殺など、そして
夏目漱石や正岡子規が生まれた、日本の歴史上とても大変な、そして
重要な年
ですが、ちなみにカナダの建国もこの年1867(71)で、
今年
2017年は建国150年です。まさか将来そんな異国の地、カナダで
客死することになるなど、
5歳の稲造は夢にも思わなかったことでしょう。

翌年1868年が明治維新。新しい時代の幕開けです。
このとき南部藩は会津藩などと幕府軍に加わり、薩摩藩や長州藩などの
新政府軍と戦い、賊軍として敗れます。時代の大きな変化とともに、
幕府側についた南部藩は当然苦難を余儀なくされました。

 そのような激動のときに、母親のせきが一人で子供たちを育てなければ
なりませんでした。でもこの母親せきは良妻賢母のほまれ高く、
すごいお母さん
だったようです。これからの世の中、新政府に逆らった
南部藩の人間が
偉くなるにはどうしても学問が必要だと考え、江戸から
戻ってきたかかりつけの
医者に頼んで、子供たちに英語を習わせたよう
です。稲造がすごく英語が
得意になったのも、この頃の母親の教育の
たまものだったのでしょう。
 また、当時はまだご法度になっていた牛肉を
強い子に育てようと、子供たちに
食べさせたというエピソードも残ってい
ます。当時としてはとても進歩的な、
まさに教育ママの先駆者だったので
はと、思えてなりません。


         
                      母親 せき

  稲造は末っ子でもあり、この母親の影響を強く受けて育ち、いつも
「立派な人になれ」と云われて育てられたようです。そして日本よりはるかに
文明の進んだ国があることを知り、いろいろなことを勉強するには、ぜひ
東京に
行ってみたいと思い始めました。
この時、稲造の叔父である太田時敏(稲造の父親の弟)はすでに盛岡を
離れて
東京に出ており、洋品店を経営していたようです。そして子供が
いない叔父さんの
要望もあり、3男の稲造は太田家の養子となって、
名前も太田稲造と変わります。


 歴史に「もし」は禁句ですが、もし南部藩が新政府に逆らわなかったとし
たら、
新渡戸家もそんな苦難は受けず、稲造も養子などにいかず、かなり
違った道を
歩んだのではないだろうか、と勝手な想像をしてしまいました。

  そして1871年、明治維新から3年後、勉学のため、養子先である
東京の太田叔父さんを訪ねて盛岡に別れを告げました。
これが母親との最後の別れになろうとは知る由もありませんが、
稲造9歳の旅立ちでした。


ご意見、ご感想は矢野アカデミー《ホームページ  www.yano.bc.ca》まで
お願いします。
                                                               


                 


Copyright (C) 2008 Yano Academy. All Rights Reserved.